あなたにとって魔法とは


第二章 第一部  夢現




ジリリリリリリリリリリリリリリ…

けたたましく鳴るベルの音が部屋に響いている。

ジリリリリリリリリリリリリリリリ…

この部屋の主はまだ布団の中で眠っているようだ。

ジリリリリリリリリリリリリリリリリリ…

布団の中から手が出てあたりを探り始める。

ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ…

やっと手が時計に触れる。

ジリリリリリリリリリリリリリリリ…リン

しばらくすると布団から顔が出てきた。帆叢だ。十分に開けきらない眼で時計を見ている。

「時間か…」

そう言うと起き上がり、伸びをひとつした。それだけでは眠気が覚めないのだろう。しばらくボーっとしたまま動かない。

「…しんどい」

何故だ?

「いつもなら寝たら疲れはとれるはずなんだけど…」

昨日のバイトが忙しかったのか?

「いや、そうじゃないな。むしろ、昨日は楽だった方だ」

じゃあ何故?

「…わからん」

それより昨日は、

「変な夢を見た気がする」

どんな?

「…思い出せない。けど、何かやっかいな、疲れる夢だった気がする」

疲れはそのせいじゃないか?

「そうかもしれないな」

そろそろ学校の用意をする時間じゃないか?

「顔を洗って目を覚ますか…ん?」

なんだこれは?

「指輪…だな?指輪なんか持ってたか?」

というかなぜはめたまま寝ている?なにかひっかかるな。

「ん〜?」

たしか、夢にも指輪が…。

「っ!」

思い出した。全てを!

「そうだ、これは昨日の夢で」

出てきた指輪だ。でも、

「なぜここにその指輪がある!」

あれは夢だったはずだ。あんなことが現実であるわけがない。万が一、夢であったとしても、

「記憶が消されているはずだ。覚えているはずがない」

話の流れではそうなるはずだ。だが、覚えているということは、

「あれは夢だったんだ。でも、」

夢に出てきた指輪がここにある。

「…意味がわからない」

しばらく考え込んではみたものの納得できる答えはでてこない。そんなことをしている間に時間はどんどん過ぎていった。

「これ以上時間を割いたら遅刻するな。とりあえず、学校に行くか」

制服に着替え、軽い朝食を済ませて家を出ようとドアに手をかけたところで思い出す。

「おっと、忘れるところだった。危ない危ない」

そう言うと、玄関に置いてある姿見の前に立ち、右手を胸に当て、目を閉じて呟き始める。


「私の心に風よ吹け」


帆叢は毎日これを行っている。


「私の心に雪よ降れ」


一種の自己暗示のようなものだろうか。


「触れた者が凍てつくほどに」


そうすることで、


「私の心を凍らせろ」


あるものを拒絶している。


手を下ろし、目を開ける。彼の眼は、いつもより鋭くなっている。いや、いつもの様にと言った方がよいのだろうか。

彼は無言のまま、家を出て行った。





学校には遅刻する前になんとか間に合った。階段を上がり、自分の教室を目指す。周りは生徒たちの話す声で騒がしい。

自分の教室のドアを開けて中に入る。ドアの音に気付いた何人かは彼の方を向いた。誰が入ってきたか確認すると各々自分たちの話を再開する。

帆叢が自分の席に向かって歩を進めようとすると、

「おはよう!帆叢!今日は珍しくずいぶん遅い登校だな!」

帆叢は声のする方を見る。男子が5人ほど集まって話をしていたようだ。どうやら、そのうちの一人が帆叢に向かってあいさつをしたようである。

「………」

帆叢は返事をすることなく、表情も変えず、自分の席へ向かって歩き出した。挨拶をした男子が帆叢に向かって不満の声をあげる。

「『おはよう』の一言ぐらい返してもいいだろ!」

食ってかかる男子を他の男子がなだめる。

「まあまあ、あれがあいつのあいさつなんだから」

「そうそう。こっちを振り向くだけましさ。この前なんか完全スルーされたぞ。俺。」

「え?俺はされたことないな。仁藤は?」

「いや、俺もない。柏木は?」

「俺もないよ」

順番に聞いていくが、皆、心当たりはないようだ。と、いうことは、

「え?もしかして、俺だけ?」

ショックを受けた様子を見て、柏木と呼ばれた眼鏡をかけた、いかにも優等生キャラの男子がひきつった笑みを浮かべて告げる。

「そう、みたいだな」

「………」

真実を告げられてさらに落ち込む。そこだけなぜか暗く見えるほどに。仁藤と呼ばれたガタイのいい体育会系の男子が慌ててフォローにはいる。

「ま、まあ、そう落ち込むなって!」

「そ、そうだよ!俺たちが忘れてるだけかもしれないし!な?」

うなだれていた男子はゆっくりと顔をあげて言う。

「…お前らのフォローが逆につらい」

「あ、あははははは」

取り巻きの男子はもう笑うしかない。これ以上はフォローのしようがない。みんな心の中で「頑張れ」と思うしかない。

「………」

帆叢はそんなやりとりを全く気にもとめず、黙ったまま席に着く。これが彼の日常だ。そう、彼が拒絶しているものは「人間関係」。

挨拶を交わすこともなく、誰とも会話をせず、ただ黙々と授業をうけ、終わったら帰る。これのくり返し。

無視したりすることに罪悪感がないわけではない。しかし、それでもあえて無視をする。周囲との関係を拒絶するのには理由がある。とても、深刻な理由が。



昼休み。昼食の時間だ。生徒たちは教室で友達同士で席をくっつけて弁当を広げたり、食堂でパンの取り合いをしている。それらの場所に帆叢はいない。彼は昼休みになると、一人教室を出ていく。

彼が向かう場所は中庭。そこにあるベンチに腰を掛けて昼食をとる。春先ということもあって少し肌寒く、ここで昼食をとっているのは帆叢以外には見当たらない。

教室や食堂などではどうしても話しかけてくる人がいる。しかし、ここではそれがない。つまり、人と関わらないにはもってこいの場所なのだ。中庭は学校で数少ない彼のお気に入りの場所の一つだ。

「………」

昼食を終えると、読書をするのも彼の決まりだ。生徒たちの騒がしい声や音もここなら遠いので読書するには差支えがない。

ペラ………ペラ………

本のページをめくる音と時々吹く優しいそよ風の音しかしない。実に静かだ。

「やっぱりこんなとこにいた!ちょっと、帆叢!」

帆叢は静けさを破った声の方を見る。そこには活発そうなショートヘアーの女の子と気の弱そうなロングヘアーの女の子が立っている。

「………」

誰かを確認すると何事もなかったかのように再び本を読み始めた。

「無視をするなぁあああ!」

髪の短い方が帆叢に食ってかかる。髪が長い方は申し訳なさそうに帆叢を窺いながら言った。

「ごめんね?帆叢君。読書の邪魔しちゃって」

「いいのよ。別に」

返事をしたのは帆叢ではなく、髪の短い女の子だ。それに反応した帆叢が、

「…お前が言うな」

やっと口を開いた。それを聞いた髪の短い女の子が嬉しそうに帆叢を見る。

「お、やっと喋ったわね。まったく、幼馴染に対してこの対応はないでしょ」

そう、この女の子二人は帆叢の幼馴染なのだ。髪の短い方が「柊 涼香」。髪の長いほうが「長谷川 楓」。どちらも幼稚園の頃からの腐れ縁だ。家も近所にあって、昔はよく遊んでいた。昔は…。

「それで、なんの用だ。俺は今忙しい」

帆叢は二人の顔を見ずに本を読んだまま尋ねる。

「忙しいってあんた本読んでるだけでしょ!」

「ま、まあまあ、涼香ちゃん」

帆叢は涼香の言葉にも臆せずに本を読み続けている。というか涼香を無視しているとしか考えられないが。

「用件をさっさと言え」

「な、なんであんたにそんな命令されないといけないのよ!」

「りょ、涼香ちゃん。お、落ち着いて?ね?」

帆叢の挑発ともとれる言葉に反応し、涼香が噛みつき、それを楓がなだめる。これがこの三人のやり取りのパターンだ。

会話のきっかけを作るのは涼香だが、内容を話すのはいつも楓の役割になっている。帆叢と涼香ではただの痴話げんかにしかならないから必然的にそうなるだけなのだが。

今回も涼香が帆叢に食ってかかるので楓が用件を伝えることになった。

「帆叢君、別に用ってほどでもないんだけど。その、お話がしたいなって」

「…話?」

帆叢が本から視線を上げて楓を見た。帆叢と楓の目が合った。楓はそれにビックリしたように目をそらす。頬が少し赤らんでいるように見えるのは気のせいだろうか。

「そ、そう、お話。だって最近全然お話してないじゃない?だから、久しぶりにどうかな?と思って」

しばらく楓を見ていた帆叢だったが、視線を本に戻して返事を告げる。

「…断る」

「え?」

あっけなく拒否の返事をされた楓はすぐに理解できなかった。そして、返答の意がわかると慌て始めた。

「で、でも…」

「もう用は済んだだろ。帰ってくれ」

「な、なんなの!さっきから!そのでかい態度は!」

今まで黙っていた涼香が会話に参加する、というか帆叢に噛みつく。帆叢の態度に我慢が出来なかったようだ。涼香が帆叢の右腕を強引に掴む。

急に腕を掴まれたため帆叢は本を落としてしまった。帆叢は目を細めて、涼香を見る。ただならぬ雰囲気を感じ取った楓が、

「ちょ、ちょっと。涼香ちゃん!乱暴しちゃダメよ!」

慌てて間に入って制止しようとして涼香の腕を掴む。

「…っ!」

その時、それまで無表情を貫き通していた帆叢の顔が歪んだ。帆叢の目線の先には彼女たちの腕があった。彼女たちの服の袖から腕に巻かれた包帯が見えていた。

「「…あっ」」

帆叢の表情の変化に気づいた二人は手を離して、袖を直し、包帯を隠す。

「………」

帆叢はうつむく。その顔は悲しみと後悔が入り混じったような、なんとも悲痛な表情だ。

涼香は包帯を巻いた腕をぶんぶん振りながら、無理やり作った笑顔を帆叢に向ける。

「や、やぁねぇ!こんなの昔のことじゃん!別に何ともないわよ!」

「そ、そうよ。ね?帆叢君」

楓も涼香の言葉を聞いて慌ててフォローに入る。心配するような眼差しで帆叢を見ている。しかし、帆叢は顔を上げずに俯いたままで黙っている。

「………」

帆叢はしばらく黙っていたが、急に立ち上がる。その動きに涼香と楓はビクッとまた驚く。どうしていいか分からず、ただ立っているだけの二人。

「ほ、帆叢?」

「帆叢君?」

「………」

帆叢は黙ったまま校舎の方へ歩き出す。

「ちょっと!どこ行くのよ!」

涼香が帆叢の後を追おうとしたその時、

「ついてくるな!」

帆叢が肩越しに後ろを向いて怒鳴った。その声に反応した涼香の動きが止まる。帆叢の声に驚いてしまって動けなくなってしまった。

楓も驚きの表情を浮かべたままその場から動けない。

帆叢は肩越しに悲痛な表情を浮かべたまま静かに呟く。

「…一人にしてくれ」

帆叢はそのまま校舎の中へ消えていった。二人とも、帆叢の後を追うことができず、彼が歩いて行くをただ見ているだけだった。

「どうして私たちが怒鳴られないといけないのよ!」

涼香は帆叢が入って行った校舎向かって叫んだ。帆叢にその叫びが届くかどうかはわからない。涼香はしばらく校舎を見ながら、ポツリと呟いた。

「…昔のことを、いつまで気にしてるのよ。…馬鹿」

涼香の後ろに立っている楓も、校舎を見ている。今は見えなくなってしまった帆叢を、見ていた。

「帆叢君…」

悲しげな顔をした二人の女の子が、中庭に立っていた。



帰りのホームルームが終わり、クラスの生徒が部活や下校し始めた。帆叢は部活動に所属しておらず、帰宅部なので、早々に家に帰ろうとしたが、

「ああ、秋雨!ちょっと来て!」

「なんですか?先生」

帆叢を呼び止めたのは担任の女教師。大塚緑(24歳:独身)。容姿は綺麗な方で体系はスリム。学校ではジャージで過ごしているが、普段着姿も悪くない。

ラフな性格から生徒たちには結構人気があって相談事なども親身になって聞いてくれる。いままで担当のクラスの生徒が起こした問題はすべて見事に解決して、

他の教師たちからも一目を置かれている。しかし、そんな彼女にも欠点はあった。なぜかモテない。ちなみに今も彼氏はいない。フリー状態。本人は少し焦ってきているようだ。

「いや、校長先生があんたのこと呼んでたのよ。『放課後、校長室に来るように』って」

「そうですか」

伝言を伝えた後、教師は同情するような笑みを浮かべる。

「しっかし、あんたも大変ね?校長にことあるごとに呼び出されて」

「いえ、別に」

帆叢は無表情で答える。教師はそっけない返事にも慣れているのか、別に気にした様子はない。

「そう?別に悪いことしたわけじゃないんでしょ?なかなかないわよ?問題も起こしてないのに呼び出されるってのは」

「はあ…」

「なに?その気のない返事は。ところで、校長室でなにしてるの?」

うきうきした顔で、目を輝かせて帆叢に聞いている。まるで面白いものを見つけた子供のようだ。そんな教師とは反対に帆叢の顔は無表情で冷めきっている。

「すいませんが、それに答えることはできません」

「いいじゃんよぉ〜。ちょっとぐらい、な?」

ねだるような声を出して帆叢に詰め寄る教師だったが、

「駄目です」

あっさりと断られてしまう。

「んもう!あいっかわらずあんたも頭固いわね!まぁいいわ。とにかく行っといで。校長先生が待ってるよ!」

教師はつまらないという感情を顔いっぱいで表して言った。帆叢はそれを見ても全く反応しない。

「はい、わかりました。ありがとうございます」

何事もなかったこのように帆叢は担任教師に一礼して教室を出て行く。その背中をしばらく見ていた彼女はため息交じりに一言。

「しかし、あいつの性格はどうにかならないもんかね?」



校長室の前まで来た帆叢は、ドアを二回ノックした。

「秋雨です」

「ああ、来ましたか。入りなさい」

帆叢はドアを開けて入る。部屋はそれなりに大きく、来賓者と話をするための一対のソファーがテーブルを挟んでおいてある。

奥には事務処理をするための机があった。そこには初老の男が立っていた。校長だ。

「用件は分かっていますね?」

「ええ」

帆叢は短く答えた。それを聞いて、校長は笑みを浮かべる。

「よろしい。では、始めましょう」



コンッ

静かな部屋に乾いた音が響き渡る。

「チェックメイトです」

「んむぅ…待った!」

校長は顎に手をやり、視線を下に向けたままもうひとつの手を帆叢の目の前に突き出す。帆叢はその手を自分の手で押しのけて小さくため息をつきながら、

「待ったは五回までと言ったでしょう。それに、いまさらこの一手待っただけではこの状況は打開できません」

「そうですか、また負けましたか」

校長は残念そうに眉根を寄せる。二人はチェスをしていた。帆叢はテキパキと盤上の駒を動かしながら、

「解説に入りますがよろしいですか?」

「ええ、お願いします」

指導に入る。一つの駒を手に取り、それを動かす。

「校長先生は懐に入られた駒に気を取られすぎです。その駒を取ろうとするあまり、他の駒の動きを見逃す傾向があります。

 たしかに、深く突っ込んだ駒に注意を払うことも必要ですが、それが囮の場合もあります。

 今回の場合などがそうです。囮に気を取らせている間に、他の駒が動きやすいように配置しました。

 目の前のことばかりを気にするのではなく、全体をよく観察し、捉えることが大事です」

帆叢が動かす駒の動きを校長は目で追う。帆叢の言葉にも「うんうん」と頷いて理解の意を示す。

「ふむ、そうか…。では、もう一局お願いします」

「すいません。今日はもう時間が…」

帆叢が申し訳なさそうな顔をして告げると、校長はひどく残念そうな表情を浮かべる。

「そうですか。じゃあ、仕方ないですね。今日はタモっちゃんの所に行く日ですか?」

「ええ」

「では、よろしく言っといてください」

「ええ、わかりました」



「今日は呼び出して悪かったですね。週末にチェス大会があるもんですから練習をしたくて、つい」

「いえ、それはいいのですが、担任を使っての呼び出しはやめていただけますか?怪しまれてしまいます」

「別に怪しいことはしてないのだからいいんじゃないですか?」

「バレたら困るんです」

「君が私にチェスを教えていることがかい?」

なぜ、帆叢が校長室でチェスをしていたかの理由がこれだ。人との関わりを拒んでいる帆叢がこんなことをしているのはとても珍しいことだ。

本当は帆叢は断りたかったのだが、断れない理由があった。



バイト先の店長が無類のチェス好きで、開店までに時間があったので「一局どうだ?」と、誘われたので一局だけ打ってみた。

実は、帆叢はチェスが得意だったので店長を相手に難なく快勝。店長はそこそこの実力を持っていたので、帆叢のチェスの腕に感嘆した。

「どうだ?明日のチェスの大会に出てみないか?」

その日はとくに用事もなかったので、何の気なしに二つ返事で了承してしまった。それが、間違いだった。

翌日、チェスの大会の会場に行くと、そこには店長と誰かが喋っていた。帆叢に気づいた店長が手招きして彼を呼んだ。

「おお、よく来たな。シンちゃん、紹介するよ。こいつ、うちのバイトの秋雨帆叢っていうんだ。帆叢、こっちは柏葉進一郎。」

帆叢は紹介された人を見て驚きを隠せなかった。

「なっ!こ、こっ!」

「ん?どうかしましたか?」

「い、いえ、別に」

なんとそれは校長だった。なんとか言葉を飲み込むことができた。バレるわけにはいかない。なぜなら、帆叢の高校はバイト禁止。

見つかったら停学処分を受けてしまうのだ。

「しかし、君の顔はどっかで見たことがある気がするな。それに、秋雨という名前にも聞き覚えが…」

ヤバい。バレる。

「いえ、きっと人違いだと思いますが。初対面です」

帆叢は慌てて否定する。すると、

「そうかい?」

なんとか勘違いだと思わせることができたのだったが、

「いや、思い違いじゃないと思うぜ。だって、こいつはお前が校長やってる学校に通ってるんだからな」

「て、店長!」

帆叢が慌てて止めたが、全て喋ってしまったのでもう後の祭り。校長は複雑な表情をして店長に告げた。

「うちの学校はバイト禁止なんですが?」

「あっ」

店長もやっと自分の失言に気づいたが、全部言ってしまった後なのでどうしようもない。帆叢が深いため息をつく。

「バイトの面接の時に言ったでしょう。うちの学校はバイトが禁止だからくれぐれも秘密にしてくださいと」

「わ、悪い悪い。つい、口が滑っちまって。シンちゃん。大目に見てやってくれよ。こいつが来てくれてからうちの店かなり助かってるんだよ」

店長が手を合わせて校長にお願いしている。そんなことで簡単にバイトが容認されるほどうちの学校は寛容では、

「まあ、それなら仕方がないですね。タモッちゃんの店ならいいでしょう」

驚くほど寛容なようだ。帆叢は驚きはしたが、それを顔には出さない。

私的なことで校長が校則を破ってもいいのかとは思ったが、余計なことを口出しをしてバイトができなくなるよりはましだ。

「助かるよ!」

「ありがとうございます」

店長と帆叢は校長に礼を言う。校長は笑っている。

「いえいえ、いいんですよ。それより、君はどうしてここに?」

「いや、昨日俺と一局打ったんだが、これがなかなか、強くてな。俺が誘ったんだよ」

「ほう、そうなんですか。対局が楽しみですね」

「お前のエントリーはもう済ませてある。おっ、トーナメント表が張り出されたな。見に行くか」

一回戦の対局が始まる時間になった。対戦相手は、

「まさか、初戦で当たるとはね」

「そうですね」

校長だった。

「それでは、よろしくお願いします」

「お願いします」

対戦前、店長が耳打ちをしてきた。

「お前、対戦相手が自分の学校の校長だからってわざと負けようとか思ってんじゃないだろうな?」

「………」

図星だ。

「そんなことは俺が許さん。昨日と同じような対局をしないと減給だ!」

「そ、そんな!」

「それが嫌だったらちゃんと勝つんだな!」

ガッハッハと豪快に笑いながら店長は自分の席へと向かって行った。帆叢はいつも通りに打つしかなかった。あの店長はやるといったら本当にやる。

減給されたらたまったもんじゃない。不幸だ、としみじみ思いため息を吐く。顔を上げ、ポーンに手をかけた。もうこうなったらやるしかない。

そして、十分後。

「ま、負けました」

「ありがとうございました」

あっけなく勝利。帆叢のチェスの腕がよかったのもあるが、校長の実力が弱すぎたこともあって早々に決着はついた。

「いやぁ〜、強いですね」

「いえ、そんなこと、ないです」

次の対戦相手のために駒を並べ直しながら喋っている。不意に校長が駒を並べる手を止め、「そうだ!」となにか思いついたように手を打った。

そして、笑顔で帆叢にこう告げた。

「私にチェスの手ほどきをしてくれませんか?」

「え?」

コンッっと音をたててチェスの駒が倒れる。帆叢は校長の顔を見たまま固まっている。その駒を校長が直しながら言った。

「ですから、私にチェスを教えてくださいと言っているのです」

「い、いや、そ、それはちょっと…」

人との関わりを避けている帆叢はもちろん断ろうとした。だが、

「そうですか…それならば、担任の先生にバイトのことを言うしかありませんねぇ」

「なっ!」

世の中はそう簡単にうまくいかないようだ。今の世の中をうまくいかないようにしているのは校長だが。

「退学とまではいきませんが、停学処分にはなるでしょうねぇ」

いわゆる脅迫だ。これが校長を務めている人がやることか!とは思うが、もちろん反論はできない。勝ち目はない、逆転の一手もない、待ったもない、詰めの状態だ。

「わかりました。少しだけなら」

その言葉を聞いて校長は微笑んだ。逆に帆叢は沈んでいるが。

「ありがとうございます。なに、そんなに頻繁にはお願いしませんよ。週に一回ぐらいです」

こうして、帆叢が校長にチェスを教えるという契約が成立した。バイトを黙認するということが条件で。



「まあ、君がバレるのが嫌だというのなら、こちらが頼んでいるのでそのようなことはしませんが」

言葉の端に腑に落ちない感じが込められているが、校長は了承してくれたようだ。

「ありがとうございます。それでは、いつものようにメールでお願いします」

「ええ、わかりました。それでは、バイトの方頑張ってください」

その言葉を聞いた時、なぜか嫌な予感がした。だから、

「そのことも、内密にお願いします」

念のために釘をさしておく。バレてしまったのでは一体何のために校長にチェスを教えているのかわからない。

「わかってますよ」

校長はニコニコと笑顔で言っている。本当に分かっているのだろうか?

「失礼します」

「ああ、ちょっと待ちなさい」

「まだなにか?」

部屋から出ようとして呼び止められた帆叢は後ろを振り返った。

「なに、すぐ終わることです。私からの助言と言ったところかな?」

「助言、ですか?」

校長からの助言。チェスの先生として教えているのに、教えられる側から助言されるとはなんともおかしな話だ。

「ええ。君は今、私に『目の前のことばかりを気にするのではなく、全体を見るように』と、言いましたね?」

「はい」

「実にいいアドバイスです」

校長は笑みを浮かべながら言った。

「ありがとうございます。ですが、それがなにか?」

しかし、と校長は後に続けた。笑みが消え、真剣な顔になる。

「しかし、それは君にも言えることです」

「どういうことですか?」

帆叢は全く意味が分らなかった。自分は全体を捉えているはず、だから、先ほどの勝負にも勝てたのだ。

「つまり…」

理由を説明しようとした校長が急に喋るのをやめた。そして、少し考えてから再び笑みを浮かべて、

「いえ、説明する必要はないでしょう。君は賢い。いずれ、自分で気づくでしょう」

「はぁ」

「さて、話はこれで終わりです。ほら、急がないと時間がなくなりますよ」

「はぁ、それでは失礼します」

帆叢は校長室から出た。ドアを閉めてため息を一つ吐いて、少し考えこむ。先ほどの言葉はどういう意味だろう?わからない。

時計を見ると針は五時すぎをさしていた。これからバイトだ。休んでいる暇はない。



「じゃあ、お先に失礼します」

店のドアに手をかけながら帆叢は後ろにいる男に声をかける。

「おう、今日は悪かったな。遅くなっちまって」

どうやら彼はこの店の店長のようだ。あごに生えたひげがとてもよく似合う豪快なオヤジといった感じの男だ。

「いえ、気にしないでください」

「そう言ってもらえると助かるよ。じゃあ、また今度も頼む」

「ええ。わかりました。それでは」

「ああ、お疲れさん」

帆叢は店を出て、大きくため息をついた。これで、今日やることは全部終わった。あとは帰って風呂に入って寝るだけだ。

ふと思い出したようにポケットを探る。ポケットから指輪を取り出した。

「今日一日考えたけど、結局わからなかったな」

あれは夢だったんだろうか。それとも現実だったんだろうか。いくら考えても答えは出なかった。ためしに指輪をはめてみる。

「…変化なし」

いろいろ考えをめぐらせながら歩いているといつの間にか家の前に着いていた。鍵を開けて家の中に入る。

靴を脱ぐとまた姿見の前に立って呟き始める。

「心の吹雪よ止むがいい。凍らす者はもういない」

帆叢の表情が、目つきが、冷たいものから変わり、少し優しいものになった。

「はぁ〜疲れた〜。急に校長が呼び出すから無駄に疲れたな。さっさと風呂に入って寝るか!」

先ほどとは打って変わっての軽い口調。これが素の帆叢なのだ。本当の姿でいるのは誰もいない家だけ。人のいるところでは常に心を冷たくしている。

鞄を置いて、着替えを取るために自分の部屋に向かった。部屋に入ると、

「おかえりなさい、ずいぶんと遅かったじゃない」

「ただいま、ああ、バイトが長引いてな。なかなか客が帰らなかったからな」

帆叢は机の上に鞄を置いて制服のボタンをはずし始めた。

「ふぅん。そうなの。あんたも大変なのね」

「まあな」

ってちょっと待て。

そこまで会話して気づいた。

おかえり?

ただいま?

そんなやり取りは久しぶりだ。

今、両親は海外にいていない。姉キも独り暮らししてるからいない。

だから、この家には誰もいないはず。

じゃあ、誰と会話しているんだ?

というかこの声は…

ズバッと勢いよくベッドの方に振り返る。そこには、

「どうしたのよ、そんなに勢いよく振り返って」

平然とした顔で夢に出てきたはずの女の子が座っていた。

「ど、どうしてお前がここにいる!」

「どうしてってこの鍵でドアを開けて入ったんだけど?」

女の子は例の「どんな鍵でも開けられる鍵」を指でクルクル回して遊んでいる。帆叢はその鍵を奪いとって言い返す。

「そういう意味じゃなくて!っていうか昨日も言ったが勝手に入るなよ!」

女の子は立ち上がって帆叢と向かい合う。

「じゃあなに?あんたはレディーに帰ってくるまで外で待っとけって言いたいわけ!」

「どこかで時間を潰せばいいだろう!」

「それじゃあ、あんたがいつ帰ってくるかわからないじゃない!ちょっと、返しなさいよ!」

女の子は帆叢から鍵を奪い返すとそれを鞄にしまう。言い合いをしていた二人だったが、帆叢があることに気づいた。

「待て、今、こうしてお前がここにいるってことは、昨日のことは夢じゃなかったのか?」

女の子は眉根にしわを寄せて当然のように言い放つ。

「当たり前じゃない。なに?あんたは夢だと思っていたわけ?」

こ、この女、俺が今日一日中考えていたことを『当たり前』の一言で解決しやがった。

「そりゃあ、普通、夢だって思うだろうが。あんな奇特なことが日常であってたまるか!」

「実際にあったじゃない」

「う、まあそうだけど」

帆叢が言い返せなくなるって会話が途切れると女の子は急にイライラして地団太を踏み始めた。

「ああもう!あんたのせいで話がズレちゃったじゃない!」

「まだ何も話してないと思うけど?」

帆叢が冷静なツッコミを入れると、女の子の目つきが鋭くなった。

「何か言った?」

「いや、別に」

反射的に誤魔化してしまったがなんで俺が責められてるんだ?まあいいわ、と女の子は言い、本題を話し始める。

「あんた、ちょっと私についてきて」

「は?」

唐突過ぎる女の子の言葉に帆叢は言葉がでない。そんな帆叢の様子を見て女の子はさらにイライラをつのらせる。

「私について来いって言ってるのよ!」

「どこに?」

「私の国に」

「なんで?」

「なんで理由まであんたに言わなきゃいけないのよ!」

イライラが最高潮になったのかわけのわからない回答が返ってくる。対して帆叢は冷静に対処する。

「理由もわからずついていく馬鹿がいるか」

「う、それもそうね。理由はあんたのことについて話があるらしいの」

帆叢は驚きの表情を浮かべる。まさか自分のことについてだとは思ってもいなかった。

「俺のことについて?なんで?それにらしいってなんだよ」

「詳しくは私にもわからないわ。ただ命令されただけなんだもの」

命令?昨日言ってた任務ってやつだろうか?

「理由はわかったでしょ?さあ、私についてきて」

「確かに理由はわかった」

帆叢はうなずいた後に毅然とした態度で言い放った。

「断る!」

「は?」

「確かに理由はわかったが、非常に曖昧だ。それに、用があるならそっちから出向くのが筋ってものだろう。さらに言うと、よくわからない場所に行きたくない。

 面倒なことはお断りだ。以上!」

女の子の眼前に指を突き付けて思っていることをすべて言い放った帆叢は非常にスッキリした表情で満足気だった。

「………」

今度は女の子が驚いていた。どうやら簡単に従うだろうと思っていたようだ。驚いていた顔がどんどん悔しそうな表情に変わっていく。

「そ、そう。それなら、こっちにも考えがあるわ!」

女の子は勢いよく杖を取り出し、それを帆叢に突きつける。状況は一変。今度は帆叢の表情が変わる番だ。

「な、なんの真似だ!」

「大人しく従わないときは無理やりにでも連れて来いって言われてるのよ!もちろん許可は得ているわ!」

どこの誰だかしらないがはた迷惑な許可を出してくれたものだ。これはいわゆる脅迫だろう。

「覚えてるでしょ?魔法の威力は」

もちろん鮮明に覚えている。壁に穴を空けるほどの威力だ。忘れたくても印象が強すぎて忘れられない。

「賢い選択はどちらかわかってるわよね?」

女の子は楽しそうに薄く微笑んでいる。Sだ。こいつ絶対Sだ!と確信するが今はそれも関係ない。行くか、行かないかだ。もちろん賢い選択は、

「わかったよ、行けばいいんだろ、行けば」

「初めからそう言えばいいのよ」

女の子は満足そうな笑みを浮かべると杖をしまう。それを確認した帆叢は安堵のため息をついてベッドに座りこむ。

「で?いつ行くんだ?」

「もちろん、今からよ」

「はぁ?今から?明日学校があるんだよ!今からなんていけるか!」

「すぐに終わるわよ。一時間もかからないわ」

「一時間?お前の国に行くんだろ?時間がかかるんじゃないのか?」

「大丈夫よ。ゲートはどこでも開くことができるんだから」

ゲート。確か、昨日言ってたあっちの世界とこっちの世界を繋ぐ門。女の子が右手を前に出し、呪文を唱え始めた。

「リュッシュ・イグダッド・ヴァース。アナリアへと繋ぐ門よ!ここに開け!」

女の子が右手の中指にはめている指輪が輝きだした。その指輪の光と同じ色の光が前に現れる。それは、ちょうどドアほどの大きさの縦に長い長方形の形になった。

「さあ、ゲートが開いたわ。入って」

「入るって、これにか?」

目の前に現れた光を指さして尋ねる。

「そうに決まってるでしょ!ほら、早く済ませたいならさっさと入る!」

女の子に背中を押されて光の前まで来た帆叢だったが、やはり不安だ。正直言って目の前のものが一体何で、それをくぐると何が起こるか分からないから怖くてしかたがない。

「ちょ、ちょっと待てよ。いきなり入れって言われても…」

「なんともないわよ!ほら!」

女の子は無造作に光の中に腕を突っ込んだ。後ろに回り込んで見たが、腕は出ていない。消えている。女の子は光の中から腕を引き出す。

腕はついたままである。本当になんともないようだ。

「これでわかったでしょ?わかったならさっさと入る!」

帆叢もおそるおそる腕を光の中に入れてみる。肘から先が消えるが、痛みは全くない。

「ええい、どうにでもなれ!」

そう言って、帆叢は光の中に飛び込んだ。

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